合宿免許の真実
教育勅語換発の翌年早々に起こった内村鑑三不敬事件(一八九一年)、それに続く「教育宗教の衝突」問題は、天皇制国家の成立直後に起こった最初の異端排除の事件であり、天皇制国家における権力自由の関係構造を示すものして、さらに、その後の思想・信条の不自由の歴史を象徴するものして、きわめて重要な事件でした。
ここで簡単にこの事件の問題点にふれておきましょう。
内村は、教育勅語への拝礼を拒否して第二烏等中学校を追われ、名古屋や熊本においても類似の事件が起きました。
そして、これらの事件に追い打ちをかけるように、帝国大学で哲学を講じていた井上哲次郎は、「教育宗教の衝突」という論文を発表して(『教育時論』一八九一年一一月号)、キリスト教が国体に反する論難しました。
この過程でキリスト教徒が発表した。内村擁護論や井上への批判には、近代国家における権力宗教(倫理)の関係が明確にとらえられ、思想・信条の自由を擁護する論議が原理的に展開されていたこは、わが国の思想史上、そして私たちがわが国の近代史をたどるうえにおいて、きわめて重要な思想的遺産いわねばなりません。
ちなみに、内村擁護のために出された押川方義・植村正久等の共同声明には、「皇上は神なり、之に向かって宗教的礼拝を為すし云わば是れ人の良心を束縛し、奉教の自由を奪わんするものなり」(『福音週報』第五一号)あり、また柏木義円の反論は、国家主義への痛烈な批判でありました。
「若し夫国家を以て唯一の中心なし、人の良心も理性も国家に対しては権威なく、唯人を以て国家の奴隷、国家の器械為す、走れ国家主義か
基督教固より此の如き主義相容れず・・・若し勅語の精神の意義にして此の如きか、走れ非立憲の勅語なり」、「今や思想の自由を妨ぐるものは忠孝の名なり、人の理性を屈抑するものは忠孝の名なり、偽善者の自らを飾るの器具は息孝の名なり」
しかし、天皇制国家には、これらの貴重な発言を許容する「寛容の原理」はなく、キリスト教は異端され、キリスト者の対応もキリスト教は国体に反するものではないいう妥協的な方向に変わっていくことによって、かろうじてその存在が認められていくのです。
まこに、教育勅語の発布は、「日本国家が倫理的実体して価値内容の独占的決定者たるこの公然たる宣言」(丸山真男)であり、「教育宗教の衝突」問題は、このことをいよいよ明らかにするものであったといえましょう。
天皇は、政治上の長(権力者)であると同時に精神的領域における権威者であるという天皇制の本質は、それゆえに、精神の領域への権力の不可侵の自由を著しく制約し、国家は日常的に国民の思想を「善導」するもに、異端者に対してはそれを権力的に排除することを必然化したのです。
この衝突事件を経て、教育勅語を頂点し、「国体観念」の養成「忠孝一致」の修身道徳を中心する天皇制教育体制は、その基礎を固めていきました。
このように、精神の自由が大きく制約されている天皇制国家のもでは、学問・教網棚貼青の自由は存在しませんでした。
すでに伊藤博文は、憲法に学問・教育の自由を規定しなかった理由をつぎのようにのべています。
「学問教育ハ自由ナリ上云ウコ、普国(プロイセン)ノ憲法ニモ明条アリシ
……若シ右ノ如ク教育ノ自由云ウコヲ明載スルキハ、必ズ是ヨリ盲端ノ議論ヲ生ジテ為メニ行政ノ権力ハ甚減殺セラルベシ」
「学問教育の自由」を認めるこは行政権力を弱めるこになる心配されたのです。
その上、学問教育の区別は、教育の自由をさらに制限する論拠されました。
森は、先の演説(五六ページ参照)の中で、従来の教育令に学問教育の区別のないことを批判し、両者の区別を説いて、さらにつぎのようにのべました。
「夫レ教育ハ他人ノ誘導二由り知育徳育体育ヲ施スモノ:シテ、共関係スル所主シテ幼年子弟二在り、蓋シ幼年子弟ハ自分ノ注文ナク専ラ他人ノ指示ヲ受ケテ働クモノス、学問:至テハ自分選択ヲ以テ学業ヲ専攻スル事ニシテ他人ハ唯其方法ヲ与ウルノミ」
この区別の原則は、森有礼文相の主張以来一般のものとなっていったのです。
教育を国民道徳の形成の場して、学問教育を区別する発想は、やがて、国民教育においては学問的真理がゆがめられることも許されるする発想へ道を開くことになりました。
こうして、一八八七年(明治二〇年)前後にその基礎を固めた国民教育は、日露戦争の前年には教科書が国定になり、修身を筆頭教科して、すべて「勅語ノ趣旨二基」づいて編纂されることになりました。
さらに天皇暗殺未遂の理由で処刑された幸徳秋水らの大逆事件(一九一〇年)、教科書の南北朝併立の記述をきっかけする「南北朝正閏問題」(一九二年)に端を発する「国民道徳運動」を通して、国体論的国民教育論が定着したことによって、学問教育の分離が決定づけられていきました。
教育内容は学問的真理に基づくのではなく、国民遺徳形成の観点から選択され、そのための真実の歪曲もまた当然視されたのです。
たとえば内村鑑三批判の急先鋒であった井上暫次郎は、正閏問題に際しても、「同じ歴史上の事実を判断研究するにも、勿論二様の態度が在る
一方は事実を事実して、其正邪善悪に拘泥せずに極めて科学的に研究する。
反して他の一方は、国民道徳の上から事実を判断研究する。
即ち国家の為に是非善悪を云う事を主眼に置く」
そして、「国定教科書の場合勿論後者に依らねばならぬ事は論ずる迄も無い事だ」とのべています。(井上哲次郎「国民道徳は成り立たぬ」史学協会編『南北朝正閏論』一九二年)
学問教育の分離は、肇国の神話万世一系を万古不変する国体イデオロギーを、国民教育を通して注入するための必要な手順でした。
国体論的憲法論に立つ上杉慎書が美濃部達吉の天皇機関説の批判を開始したのもこの頃でした。
上杉をいらだたせたのは、美濃部の問題の書が、「文部省の開催せる中等教員夏期講習会における講演速記」という点であり、「もし教育に従事する人士この国体の解を以てオーソリタティプなりするこあらば、かかわる所きわめて重大、学者が論理をあやつりて研究室裡頭脳の明晰を誇る自ら同一視すべからざるものあり」(「国体に関する異説」『太陽』一九一二年六月号)の理由からだったのです。
本来的には最も親しい関係にあるべき学問教育に、そことでは対銃的な社会的役割が期待されていたのです。
森文相以来の「学問教育は区別されるべきだ」という発想は、教育内容を科学結合する試みを著しく困難にすることになりました。
「日本国の教育は学芸技能の人を造るに非ず、日本国の人物を造出するにあり、故に西洋の規則に拠らず陸軍士官学校の規則を掛酌し、……其根本忠君愛国の精神に外ならず」(森有礼)
教育は学問結びつくのではなく、軍事不可分に発想されたのです。
まことに「教育兵制は容易にデスポティック(専制的)は止められ申さず候」(木戸孝允)であったのです。
その後も教育は国家的なものいう発想は、敗戦まで破られることはなかったのです。
欧米の近代国家においては、思想・信条・教育の自由の原理は国家権力遺徳(宗教)の緊張関係を軸して展開・確立されるのにたいし、わが国においてはその間題が「教育宗教の衝突」として、すなわち教育が国家の代名詞的役割を担って発現したという点に、まさに国家教育の結合の深さが示されているいえましょう
そして、「教育宗教の衝突」を生み出した。同じ力が、学問教育の断絶を生み出したといえます。
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